ルーレットは本当にランダムかを調べる

ボアンカレがフランスでランダム性の原因について考えていたころ、イギリス海峡の向こう側では数学者のカール・ピアソンが夏休みを利用してコインを放り上げていた。休暇が終わるまでに1シリング硬貨を投けた回数は2万5000回を数え、ピアソンはその1回1回の結果を漏れなく記録しておいた。作業の大半は屋外で行なったので、本人に言わせれば、「滞在していたあたりで悪評が立ったことに疑いの余地はなかろう」。

ピアソンはシリング硬貨で実験しただけでなく、同僚たちに頼んでペニー硬貨を8000回以上投げてもらったり、数字の書かれた札を袋から繰り返し引いてもらったりした。ランダム性を理解するためには、できるかぎり多くのデータを集めるのが肝心だとピアソンは考えていた。彼の言うとおり、私たちは「自然現象の絶対的知識など」持ち合わせて「おらず」、たんに「自分がどう感じているかを知って」いるにすぎない。

そしてピアソンはコインを投けたり札を引いたりするだけにとどまらなかった。彼はさらなるデータを求めて、モンテカルロのルーレットテーブルに目をつけたのだった。ピアソンもポアンカレ同様、なかなか多芸多才だった。偶然性に興味を抱いていたのに加えて、戯曲や詩を書き、物理学と哲学を研究していた。イギリス生まれのピアソンは広く旅して回った。とくに夢中になっていたのがドイツ文化で、ハイデルベルク大学の事務職員が誤って彼の名前をミススペルしてしまうと、そのままその綴りを使い続けた。

あいにく、計画していたモンテカルロ行きは実現しそうになかった。フレンチ・リヴィエラのカジノへ「調査旅行」に行くと言っても、研究費を出してもらうのはほぼ不可能なことはピアソンも承知していた。だが、わざわざホイールを観察するまでもなかった。じつは、『ル・モナコ』という新聞がルーレットの結果を毎週発表していたのだ。

そこでピアソンは、1892年夏のある4週間の結果に的を絞ることに決めた。そしてまず、赤と黒の結果の割合を見てみた。ホイールを何度となく回せは (そして0を無視すれば)、赤と黒の割合は半々に近づくはすだ。『ル・モナコ』紙に発表された1万6000回ほどのスピンのうち、50.15パーセントが赤だった。ピアソンは0.15パーセントの違いが偶然の産物かどうかを突き止めるために、50.15パーセントという結果が50パーセントからどれたけ外れているかを計算した。

次にその結果を、ホイールがランダムだった場合に見込まれる変動と比べた。すると、0.15パーセントの違いはとくに異常ではないことがわかったので、ホイールのランダム性を疑う根拠は得られなかった。

赤と黒が出た回数は同じようなものだったが、ピアソンは他の結果も調べてみることにした。そこで次に、どれぐらい頻繁に同じ色が続けざまに出るかに注目した。カジノの客はそうした巡り合わせにこだわりかねない。1913年8月18日の晩を例に取ろう。モンテカルロのカジノの一軒では、ルーレットボールが十数回も続けて黒の上に止まった。客はそのホイールの周りに群がり、次が何色になるかを見守った。いくらなんでも、もう黒は出ないはすでは?ホイールが回り始めると、客たちはどっと赤に賭けた。ところが、ボールはまたしても黒に止まった。さらに多くのお金が赤に賭けられた。だが、次も黒だった。そして、その次も、そのまた次も。ホールは都合26回連続して黒のポケットに飛び込んだ。もしホイールがランダムなら、どのスピンも互いにまったく無関係のはずだ。黒が続いても、赤が出る可能性が高まるわけではない。それなのにその晩、客たちはそうなると思い込んだ。それ以来、この心理的なバイアスは「モンテカルロの誤謬」として知られてきた。

赤と黒がそれぞれ連続して出た回数を、ホイールがランダムだった場合に見込まれる頻度とピアソンが比べると、どうもおかしかった。同じ色がニ回か三回続けて出ることが、本来あるべき頻度を下回っていた。そして、色が交互に (たとえば赤、黒、赤という具合に) 出ることがあまりに多過ぎた。ピアソンは、ホイールが本当にランダムだと仮定した場合に、少なくともこの程度まで極端な結果が出る確率を計算した。この確率は、ごく小さかった。

実際、本当に小さかったので、地球の歴史が始まって以来ずっとモンテカルロのルーレットテーブルを眺め続けていたとしても、これほど極端な結果を目にすることはとうてい見込めないとピアソンは述べている。それは、ルーレットが偶然性に左右されるゲームではないという決定的な証拠だと彼は考えた。

この発見に彼は激怒した。ルーレットのホイールがランダムなデータの恰好の供給源になってくれればと願っていたのに、彼の巨大な「カジノ実験室」が生み出す結果は信頼できないのだから腹が立った。「科学者は半ペニー銅貨を投げたときの結果を誇らしげに予測するだろう。しかし、モンテカルロのルーレットは彼の理論を混乱させ、法則を嘲るように振る舞う」とピアソンは述べた。ホイールが自分の研究にはほとんど役に立たないのが明らかになったので、カジノは全部廃業にし、その資産は科学に寄付させるべきたとピアソンは提案した。

ところが後日、ピアソンが得た異常な結果は、本当はホイールに欠陥があったせいではなかったことが判明した。『ル・モナコ』紙は記者たちにルーレットテーブルを見守って結果を記録するようにお金を払っていたのに、彼らは手抜きして数をでっち上げていたのだった。

そんな怠け者たちとは違って、ヒッブズとウォルフォードはリノを訪れたときには実際にルーレットのホイールを見守った。すると、4つに1つの割でホイールには何らかのバイアスがあることがわかった。なかでもあるホイールにはひどい偏りがあったので、それ
で賭けをしたニ人は最初の100ドルの賭け金をみるみるうちに増やすことができた。最終的にどれだけ儲けたかについては諸説があるが、いくら稼いだにせよ、クルーザーを買って一年間カリブ海を回るのに十分な額だっだ。

ニ人のものと似たやり方で成功を収めたギャンブラーの話は山ほどある。モンテカルロのあるホイールのバイアスにつけ込んで一財産築いたヴィクトリア女王時代のエンジニア、ジョセフ・ジャガーや、1950年代初期に国営のカジノで大儲けしたアルゼンチンのシンジケートについては、多くの人が語っている。ピアソンがランダム性について調べてくれたおかけで、弱点を抱えたホイールを見つけるのはごく簡単になったと思う人もいるかもしれない。たが、バイアスのあるホイールを見つけたからといって、それが儲かるホイールだとはかぎらないのだ。

1948年、アラン・ウィルソンという名の統計学者が四週間にわたって毎日24時間、あるルーレットのホイールのスピンをすべて記録した。それからピアソンの検証法を使って、それぞれの数が出る可能性が同じかどうか調べると、そのホイールにバイアスがあることは明らかだった。ところが、どう賭けたらいいかはわからなかった。ウィルソンはデータを公表するとき、ギャンブル好きの読者に挑戦状を叩きつけた。

「どんな統計的原理に基づいて特定のルーレットの数字に賭けることを決めるべきか?」。一つ答えが出るまでに、35年かかった。スチュアート・イーシアーという数学者がとうとう気づいたのだが、重要なのはランダムでないホイールを見つけることではなく、賭けるときに有利になるホイールを見つけることなのだ。

膨大な回数のスピンを観察して38の数字のうちの一つが他の数よりも出やすいという確固たる証拠が見つかったとしても、それだけでは儲けられないかもしれない。その数は、平均すると36回のスピンで少なくとも1回出る必要がある。さもないと、依然としてカジノに負けることが見込まれる。

ウィルソンのルーレットのデータに最もよく出てきた数は四たったが、イーシアーが調べると、4に賭ければ長期的に儲けが出るという証拠は見つからなかった。そのホイールがランダムでないのは明らかだったものの、特別有利な数はないようだった。イーシアーは、自分が方法論を示したころには、ほとんどのギャンブラーにとっておそらく手遅れになっていたことを承知していた。ヒッブズとウォルフォードがリノで荒稼ぎしてからの年月に、バイアスのあるホイールはしだいに減って、姿を消していたからだ。だが、ルーレットが無敵でいられたのも、そう長いことではなかった。

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